満99歳を迎えたおばあちゃんの死に直面して思い知ったこと

26年間生きてきて初めてのお葬式

僕は最近になって初めて、身内の死を体験しました。
満99歳になる父方のおばあちゃんだ。

 

僕は幸せなことに、26年間生きてきて親族の死や近い友人の死を経験することが無かった。だから、お父さんから「おばあちゃんが亡くなった」とLINEが着ても、正直ピンとこなかったのが正直なところだった。

 

僕は関東住まいでおばあちゃんは関西住まい。小学生くらいまでは、年に一度か二度のペースで会うくらいだったが、中学高校の進学するにつれて、会う頻度は2年3年に一度のペースにまで下がっていた。

 

遠距離だから感情が湧かないのか、疎遠だったから感情が湧かないのか。それとも、両方が理由だろうか。そんな疑問を心の片隅に抱えながら、新幹線に乗り込んだことを鮮明に覚えている。

 

僕の知らないおばあちゃんの話

葬儀会場にに到着し、棺で眠っているおばあちゃんと対面した。おばあちゃんはとても綺麗な顔をしていた。僕は涙こそこぼさなかったが、おばあちゃんとの想い出がフラッシュバックして目頭が熱くなった。

 

どうやら遠距離ゆえに死を間近に感じることができず、疎遠だったゆえおばあちゃんとの想い出に少しモヤがかかっていたことで、感情が上手出て来なかったらしい。

 

おばあちゃんは僕のお父さんを含めて三人の男の子を産んだ。お父さんのお父さんは戦争で怪我をして寝たきりで、お父さんがまだ子供の頃に亡くなったらしい。おばあちゃんは女手一つで、三人の子供を育ててきたようだ。僕の知らない話をお父さんはポツポツと語ってくれた。

 

お父さんから聞いたおばあちゃんの話は、もしかしたら少し美化されているかもしれない。ただ、おばあちゃんが激動の時代を逞しく生きてきたことははっきりと理解できた。

 

僕はお父さんの口から語られるおばあちゃんの話を聞き入った。決してものすごい勢いで熱弁するわけでもなく、静かに優しく、僕のお腹に響いてくる、そんな語り口だった。

 

きっと誰しもが人の心を揺さぶるエピソードがある

深く心に残った出来事を語るときは、言葉に言霊が宿るのかもしれない。

 

僕が知らなかっただけで、おばあちゃんには色んなエピソードがあって、お父さんやおじさん達の心に深く痕跡を残していったんだと知った。

 

もし生前にもっとおばあちゃんのことを知る機会があれば、僕とおばあちゃんと会う頻度や関わり方は変わっていかもしれない。

 

僕もおばあちゃんのことを深く知ろうとしなかったし、おばあちゃんやお父さんもあまり教えてくれなかったから仕方がないかもしれない。でも、凄くもったいない気分になった。

 

おばあちゃんのことを深く知っていれば、僕はおばあちゃんからもっと色んなこと学べたかもしれないし、僕とおばあちゃんはマブダチのように親密な関係になれたかもしれない。あくまで、もしかしたらの話ね。

 

自分の経験を語ることって、それくらい人と人との関わり方や聞いた人の人生に変化を生む可能性を秘めていると思う。僕自身、色んな人のブログを読んで勇気をいただいて、会社を辞める決断をしているしね。

 

ちょうどタイムリーなことに、ブロガーの友人が「読者の方から感謝の言葉が送られてきた」という旨の記事をアップしていた。彼の留学経験にについて描かれた記事が、留学で悩んでいる女の子の背中を押すことができたらしい。別にその女の子のために書かれた記事じゃないし、ただ彼の経験をブログでシェアして書いただけなのに、だ。とってもいい話だし、可能性が膨らむよね。

 

きっと誰しもが人の心を揺さぶるエビソードを持っている。もちろん、僕にだって。

ただそれをちゃんと表現して、伝えられるかどうかが鍵。

 

自分を表現しなければ誰も価値に気づいてもらえない

「自分を表現しなければ誰も価値に気づいてもらない」

おばあちゃんの死を目の当たりにし、振り返って考えてみて、行き着いた僕の答え。

 

まだまだ表現が稚拙だから、読んでくれた人の心を打つような文章は書けないかもしれない。もしかしら、読みづらくて困ってるかもしれない。でも、表現することは諦めないで続けたい。

 

「自分を表現しなければ誰も価値に気づいてもらない」の反対は、「自分を表現していれば誰かが価値に気づいてくれる」だから。